え、そうなん?知らんかった! 東広島にある3つの国史跡
東広島市西条にある3つの国史跡。
いずれも、公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
史跡の歴史を知って訪れればちょっと景色が違って見えるかも。
同じ町内に3つの国史跡は珍しい
東広島市にある国史跡は「三ツ城古墳」「安芸国分寺」「鏡山城跡」の3つ。いずれも西条町内にある。同じ町内に3つの国史跡があるのは全国的にも珍しい。
多くの人に西条の歴史・文化を理解してもらいたいと東広島郷土史研究会はことし、「三国史跡」として、3つの史跡を見て歩く会や展示会を開いてきた。数々の歴史があるが、その中でも「ちょっと人に話したくなる」情報を同研究会に聞いた。
鏡山城には最古級の城掟があった
鏡山城には管理規則を定めた城掟「安芸国西条鏡城法式条々」5カ条があり、現存するもので最も古い城掟だとされている。「大内家壁書」に記されていた5カ条を現代文にすると次のとおり。
▽城番は、本人が勤めるべきで代理に勤めさせてはいけない
▽この城の整備は、毎日怠りなく行うこと
▽たとえ城番の知人であっても城内に入れてはいけない
▽常時蓄えている食料は平時でも城番に配ってはいけない
▽ばくちは固く禁止する、この旨に背く者は成敗する
といった厳しいものだった。
三ッ城古墳は県知事級の人の墓
三ッ城古墳の3基の古墳からは勾玉(まがたま)、銅鏡、首飾り、鉄製の刀などが出土し、加えて1号埋葬施設からは女性の人骨、2号埋蔵施設からは男性の人骨が見つかった。この男性が現在の広島県西部を統率した首長だと考えられる。安芸の国を治めていた大豪族の墓だと考えられている。現在でいうと県知事級の墓となる。
安芸国分寺の木造薬師如来坐像の表面は和紙
安芸国分寺には2体の薬師如来坐像がある。本尊の薬師如来は東広島市重要文化財で、33年に1度しか開帳のない秘仏。江戸時代に火災に遭い、その際、頭部だけを持ち出して無事だったが、胴体部分は焼けた。焼けた翌年には京都の仏師によって胴体部分を造られ、今に至る。
薬師堂にある木造薬師如来坐像は県重要文化財で、希望すれば拝観できる。度重なる火災で表面が炭化し破損が進んだ。平成18年に解体修理。全身の表面を和紙によって覆い、保護している。
奈良時代、西条は安芸国の中心地だった
国分寺は聖武天皇の命令で、次のような条件をクリアした場所に建てられた。
▽穏やかな傾斜地▽水害の恐れがなく安穏な場所
▽人家より離れているが人が集まるには便利な場所
▽国府に近い場所(国府の所在地は不明)
▽条里区画がされていること—など。
この条件を満たすとして安芸国では西条吉行に決まった。
国府は現在でいう県庁で、国分寺があった西条は、安芸国、現在でいう広島県西部の中心地だったことが分かる。
三ッ城古墳(古墳時代)
3つの古墳があり、第1号古墳は鍵穴の形をした前方後円墳で、全長約92m。これは広島県内で最大の大きさ。昭和57年に国史跡に指定。平成2〜5年にかけて、保存と復元の工事がされ、現在は三ッ城近隣公園として整備されている。
場所は西条中央7、三ツ城小学校向かい。
安芸国分寺(奈良時代)
奈良時代、疫病と飢饉(ききん)や反乱などによる国土の荒廃を憂いた聖武天皇が、それを鎮めるために当時の日本各国に国分寺の建立を命じた。昭和11年に塔跡が国史跡に指定された。57年には主要伽藍(がらん)部分、平成7年に西側部分が追加指定された。2015年、安芸国分寺歴史公園として整備された。
場所は東広島市西条町吉行。
鏡山城跡(室町時代)
山口の守護大名大内氏が室町時代、安芸国支配の拠点として築いた山城。大内氏の城番が在城。畝状堅堀群、堀切などが残っている。昭和60年に県営公園として整備され、平成10年に東広島市に移管された。同年に国史跡に指定された。
場所は東広島市鏡山(鏡山公園内)。
(プレスネット2016年10月8日号掲載より)
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