「酒都西条」と呼ばれる理由
酒どころ西条。JR西条駅周辺には七つの酒造会社があり、赤レンガの煙突が立ち並び、白壁となまこ壁の町並みが続きます。“日本三大名醸地”の一つに数えられ、『酒都西条』と呼ばれています。
昔から醸造に適した気候風土と名水に恵まれていた西条町(戦前は西條町)に住む熱心な4人の酒造家の働きかけによって、精米機の技術開発が進み、酒米の研究を行う農事試験場、醸造試験場などの、酒造りの最先端を行く技術が西条のまちに集積されました。
「酒都西条の礎を築いた酒造家」が木村和平、島博三、木村静彦、石井峯吉です。それぞれが酒の販路拡大、酒質の向上などに取り組み、西条町の造り酒屋は明治から昭和初期にかけて、3軒から10軒に増えました。
明治31年、安芸津町三津の酒造家・三浦仙三郎が開発した「軟水醸造法」で、酒造りが大きく変わります。その醸造法をさらに生かした独自の醸造技術『広島流吟醸造り』によって、西条をはじめ、安芸津や竹原など県内各地で、最高水準の酒が出来るようになりました。
明治40年に始まった全国清酒品評会(日本醸造協会主催)などでは、常に上位を独占。大正時代に入ると『広島の酒』、そして西条の酒は全国の酒造業者の目標となりました。
日本酒造りをリードしてきた地。それが酒都。昭和7年、俳人・河東碧梧桐が西条を「酒の新都」と称したことによって、全国に広まりました。
現在、西条がある東広島市には、日本で唯一の酒の研究機関、酒類総合研究所があり、今でも『酒都』をしっかりと支えています。
取材協力/酒都西條「酒蔵通り」歴史研究家・松木津々二さん
(故人は敬称略)
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